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昭和三十六年二月四日 晴
小ゑんさん(現・立川談志)と北の花月へ行き、“ノック・フック・パンチ”というトリオを拝見。
新しいセンスの程を知らされ、又、面白かった。ピンカールの、何とえらい事よ。相変わらず芸達者な喜多代さん、無条件に面白い三平・四郎の後、「新・替り目」米朝兄。
兄独特の枕から、息の良さで見事に受ける。聞いていて、気持ちが良い。本根多は、人力車をタクシーにしたモノ。
「桂文紅日記 若き飢エーテルの悩み」(四代目桂文我著)より
京の噺家 桂米二でございます 第173回 かわり目 より。
師匠がこの「かわり目」を必ずサゲまでやるようになったのは、昭和40年代の終わり頃だと思います。それ以前は前半だけを、しかも人力車ではなくタクシーで、まるで新作落語のようにしてやっていました。それは古くは千日劇場、後は道頓堀の角座のような演芸場で、漫才の間に挟まれて落語をやるための演出だったのです。それをホール落語中心の活動となってから、時代をまた明治の人力車に戻して、途中で切らずにサゲまでやるようになりました。その頃から、「おっちゃん、ボウチ」が付け加わったのでしょう。
京の噺家 桂米二でございます 第173回 かわり目 より。
この落語の舞台になっている場所は上町です。上方落語にはよく地名として上町が登場します。
上町のおっさん、なんて人物が出てきますが、これは七代目桂文治(1848~1928・初代桂米團治)師匠が上町の徳井町に住んでいたからだそうです。
(略)
その少し南の上町筋に上町という交差点があります。この辺りは上町という町名ですが、そうなったのは昭和19年のことで明治時代には町名としての上町はなかったと思われます。ややこしいですねぇ。ま、人力車に乗ったのはこの辺りということで勘弁願いましょう。
(略)
後半、うどん屋相手に左官の又兵衛の娘の話を聞かせます。「おっちゃん、ボウチ」があって、嫁入りの挨拶の場面、
「又兵衛、ボロボロと泣きよった」
私はうちの師匠のこの噺を舞台袖で聴いていて、又兵衛とおんなじように何度泣いたかしれません。実にいい話です。
今から数年前のことです。米朝家でお酒をいただいておりました。そのとき一緒に飲んでいたのは、うちの師匠と私と当時、小米朝だった米團治君の3人。飲みながらももちろん芸談です。真面目でしょ?
話題はいつしか「かわり目」になっていました。
「師匠、後半の『おっちゃん、ボウチ』はいいですね」
小米朝君も「そうそう」とうなずいています。
しばらく間があってうちの師匠が言いました。
「うむ……。あそこは、わしがつくったんや」
知りませんでした。てっきり昔からあるんや、と思ってました。私はうちの師匠の創作の場面で泣かされてたのですね。
小米朝君も知りませんでした。うちの師匠はなぜか、こういう自慢話をしないことがあるのです。
逆に自慢話満載のときもありますけどね……。
原典は江戸小咄にありますし、これは東京が本家のはなしであると思います。しかし上方でも昔からありまして、戦後では三代目笑福亭福松(文の家かしく)師がやっておられました。
(創元社「米朝落語全集」解説より)