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お祝い口上 司会:笑福亭仁鶴
桂米朝、桂春団治、桂小文枝、夢路いとし・喜味こいし
米朝:昭和54年(1979年)1月に「六世松鶴極つき十三夜」というのがあった。これはもう、お祭り的な意味合いでね。そやさかい切符がよう売れてね。そんなに大きなところではなかったしね。
鶴瓶:これは三栄企画がやったんですね。マネージャーの奥田勉がやったんです。
米朝:あれはまぁ、やはり、もう、笑福亭のね、仁鶴やなんかも結構売れてた時分やったしな。
私は、初日に出て口上で「もう、松鶴の最後を聞こうと思う人は、毎日来てくれ!」と言いました。
あの会は、酒屋がスポンサーについてね。
鶴瓶:そうです、そうです。
米朝:毎日、こうね、ポーンと鏡割りしよんねん。もう、こうなったら、飲まなしゃあないわなぁ。
お客さんにも振舞ういうて、二日ぐらいで樽酒が空いてしもたんで、結局、一升瓶を買うてきて、グゥーッとその中へつぎ込んでな(笑)
鶴瓶:それで、そのスポンサーが「白鷹」やったのに、おやっさんが落語の中で、「白鶴」と言い間違いをしましてね。「白鶴」言うたんですよ、「白鷹」を。
で、おやっさんの同級生がえらい酔うて、客席からおやっさんが落語やってんのに、「ワァーッ!」言うて、舞台でトラで、客席でトラ・・・・、メチャクチャや。
落語に合いの手を打つんです。こっちはネタで「オーラァーッ!」と言うてんのに、向こうも「オーラァーッ!」て。
皆で「引きずり出さなあかん! 引きずり出さなあかん!」(笑)言うて、えらいことでした。
米朝:そら入口に樽酒が置いてあったからね。
六世笑福亭松鶴はなし(戸田学編)岩波書店より
大阪市北区堂島の毎日ホール七階・毎日国際サロンという四百名収容の会場にて行われた。「オールナイトニッポン」のナンチャッテおじさんドキュメントでギャラクシー賞選奨だった翌年のことだから、ボクは三十一歳だった。松鶴師匠は当時六十一歳。それまで高血圧などですぐれなかった体調がひとまず回復し、ここで落語家生活の道しるべとなるような落語会、という構想が実現した。
松鶴といえば、酒を題材にしら噺の名人でもあり、夜の盛り場での逸話も数多く、まさに“酒飲み”のイメージにぴったり。それで落語会後援団体に、従来の大阪府・大阪市に加えて、灘の酒造会社十三社が参加することになり、第一夜は「大関」、第二夜は「多聞」、第三夜以降も「日本盛」「白鷹」「白鹿」「櫻正宗」「金露」「白鶴」「菊正宗」「富久娘」「沢の鶴」「金盃」「白雪」という具合に、各社が日替わりで二斗樽を寄贈してくれて来場者にふるまい酒として提供された。
(略)
十三日間で四九○二名の来場者を呼び大成功に終わる。
二度目の十三夜興行「白鶴新春寄席 松鶴・仁鶴極つき十三夜」は白鶴酒造が単独提供で後援。
パンフレット、ポスター、チラシすべてタイアップ、全期間通じて二斗樽も寄贈してくれた。五代目松鶴からお付き合いがあり、五代目が発行していた雑誌「上方はなし」にも広告を載せていた間柄だという。
そして十三日目の「三十石」。最終日ということもあり白鶴酒造から偉い方々がおみえになり、客席で聴いていた。
その目の前でこともあろうに松鶴師匠は、
「やっぱり酒は白鷹」って言ってしまった。ふるまい酒もいただいた筈なのに。師匠、そこはなんとしても「白鶴」って言わなきゃ。
事情のわかっているお客は大ウケ。そしたら師匠ご丁寧にもう一度、
「白鷹や」。
二回も言った。これじゃ確信犯だ!ボクは後で、白鶴酒造に謝りに行った。
「えらいすんまへん。ボケてまんのや。とうとうボケてしまいました」って(笑)。
実に難儀な思いをしたことは、いまでも鮮明に覚えている。
笑福亭鶴光「つるこうでおま!」(白夜書房)より