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上方落語関係の〇〇について探求してみます
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 本日「桂文紅日記  若き飢エーテルの悩み」(四代目桂文我著)購入。
昨年から昭和三十年代に興味津々だったので2,200円(税抜)でしたが躊躇わずに購入。
昭和32年から昭和36年までの個人的日記から精選し、「鬼薊」「胴取り」「島巡り」「テレビ葬式」の4篇の落語速記を加えた一冊。




 日記をほぼそのまま記載しているので、当時の関西・上方落語の時代背景や、桂文紅師に興味のない方にはあまりお薦め出来ない書籍かもしれませんが、行間を読んだりする必要もあったりするかとは思いますが。当時をリアルタイムに生きた人や、昭和30~40年代に思い入れのある方や興味のある方にとっては、色々なことが思い浮かんだり、あれやこれや思い出したり出来るのかもしれません。

 私はもちろんリアルタイム世代ではございませんが、まず一気に読める内容ですのでダーーーっと読んで、気になるところを読み返したりして楽しんでおります。

 桂文紅さんは昭和7年生まれで、昭和30年、23才の折に四代目桂文団治師に入門、とのことなので、この日記の当時は25才から29才までの4年間の記録。
現在生きていたならば78才となっておられるはずです。

 日記を読んで印象的だったのは、
・文団治師宅への稽古通いとラジオ録音の立会いや、四代目文枝師との関係。
・宝塚から復帰した一・一(後の三代目林家染語楼)、桂春坊(後の露の五郎兵衛)両者に関しては「さん」づけで記されていました。
その他の方々は「師」「兄」「君」だったのですが、先の2名だけ「さん」で表記されてる。
・当時枝鶴だった後の六代目松鶴の高座の感想のほとんどで絶賛している。
・当時の森乃福郎さんは若手として相当注目されていたらしいのと、かなり芸人としての頭の回転も良さそうで、それでいて落語にも精進していたようだ。
・当時入門したての染奴の現・月亭可朝さんは落語家として注目されていたようだ。 
・先代の林家染丸(三代目)の話をよく聞いていたようだ(この当時の文紅さんが自分の佇まいを見つめて派手な芸風を取り込まなくては、と悩んでいたからだろうか・・・)
・千日土地興業と吉本興業の当時の関係性など
・吉本興業移籍に関する件で笑福亭松之助兄からの助言やバックアップ(このあたりは難波利三氏の小説と読み合わせるとはっきりしてきそう)。
・興行主側から見た芸人の商品性、これは米朝師匠の著書などにも時折出てきますが、かなりシビアに芸人さん側も受け止めているあたり。

などなどです。

 少し前にCDも発売されて耳で聞く文紅師は可能な状況となっていますので、音を聞きながらこの日記をつまみ読みなどしても楽しいかと思います。

 平成17年、2005年、3月に亡くなられましたので記憶にある方も多々いらっしゃると思いますが、なかなか接する機会もなかったのも正直なところであるのではと。

 レコードで発売されたのは、島之内寄席ライブでの「猪買い」や上方落語大全集・東の旅での「煮売屋」(ともに昭和47年)、昭和51年発売のポリドール上方落語古今十八番集での「植木屋娘」、
NHKの東芝EMIボックス収録の「鷺とり」ぐらいだったので(それもなかなか入手困難な状態でしたので・・・)。

 現在はまだビクターから発売されているCD2枚が入手できるので文紅さんの落語に触れることも出来ます。

 かくかくかく言います私は、小学生の頃に高座に接した記憶があるので記しておきます。
 昭和50年代後半から60年初期のあたりだと思いますが、まずはラジオ大阪の出前寄席で「いかけや」「煮売屋」「世帯念仏」とか聞いたりして不思議な口調の落語家さんやなぁなんて思ってましたが、
その後聞いた四代目文団治師の録音を聞いて「そっくりやん!」てな感じでびっくりしたりして。

 生の高座は京橋ダイエー島之内寄席での「鬼あざみ」
お客さんは10人ぐらいいたかいなかったか・・中入り前に登場した文紅師はじっくりと語り出したのでありました。
 おそらくなんですが、ビクターのCDの解説にある「鬼あざみ」の項がどう読んでも同じ時期なので勝手に引用しておきます。

 文紅の高座は、笑いを取るところであってもしつこく演じず、淡々と話を進めていくところに、味わい深さがあった。文紅の『鬼あざみ』を初めて間いたのは、昭和五十年代前半、京橋のダイエーで開催されていた頃の島之内寄席での高座だった。その時は客の入りが悪く、高座へ現われた文紅はお定まりの挨拶をした後、「今日は、畳の目を見ながら、ちょっとしっとりとした話をしやべらせていただきます」と断って『鬼あざみ』を話し出した。中盤までは東京落語の『薮入り』に似た展開。どちらが先にできた話かはわからないが、いくつになっても親は子を子ども扱いするものだと感じさせるところが面白い。異なるのは、『薮入り』はハッピーエンドになるが、『鬼あざみ』は親の心配が的中して正体がばれてしまう。
オチはつけずに余韻を残し上演時間は25分ほど。笑うところは少なかったが、朴訥とした父親の口調の裏にある親子の情愛を感じる結構なものだった。
(略)
ところで、「鬼あざみ』についてはもうひとつの貴重な経験がある。それは、平成元年十月十三日に京都の安井の金比羅さんで開催された「第138回桂米朝落語研究会」での『鬼あざみ』のリレー高座。当時、べかこだった桂南光が文紅から習った現行のものを「鬼あざみ(上)』として演じ、続いて米朝が学生時代に東京の講釈場で聞いた講談「鬼坊主梅吉」の島抜けの部分を「鬼あざみ(下)」として演じた。暗闇の中、抜き手を切って泳ぐ姿が目に浮かぶようであり、最後は辞世の句で締めくくったと記憶している。上方では講談と落語はかなり親密な関係にあるもので、古くは三代目笑福亭松鶴は竹山人という名で水戸黄門を中心とした講談の名手として売れた時期もあったし、文紅の師である四代目文團治も旅興行の時などは杉山文山を名乗って講談を披露することもあったというから、遠い昔の寄席情緒を昧わったような得をした気分だった。前田憲司(寄席芸能史研究家)


とのことですが、私が聞いたときは、現南光(当時べかこ)さんの「鬼あざみ」を聞いたあとだったので、も少し後の話だったのかもしれません、記憶があやふやですが、同じ日に出演していた月亭八方さんが初の独演会寸前だったはずで、3日間の公演で「算段の平兵衛」や「蛇含草」を口演していた記憶があるので(かなりあやふやな記憶ですが)。。
急遽、六代目も出てきて一席やっていたような気もしますが。。。遠い記憶となっております。

 「鬼あざみ」という噺を聴いて当時子供の私は反抗期だったとは思いますが「こらエグイかもなぁ。親の言うことはある程度聞いときます・・・」と思ったのは確かです。

 近年大阪の1008ABC朝日放送で昭和40年代の録音「ぜんざい公社」「盗人の仲裁」「たけのこ~地蔵の散髪」「らくだ」の放送や、亡くなった折にはラジオ大阪で「近江八景」、NHKで「さかさま盗人」などが放送されたりですが、話題にのぼることも少ないとは思いますが、気になった方はぜひ独特の間で明治からの上方落語を継承しつつ昭和の経済成長と共に活動した文紅さんの落語に接してみてはいかがかなと思います。

 「光陰は矢のごとし」




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